昭和45年12月30日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
御理解 第49節
「信心は相縁機縁。」
御理解 第50節
「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
昨日ある方のお取次をさせて頂いた。年末で何とはなしに気忙しいゆえに、いらいらもやっぱりある。人間関係の事です。もう先生辛抱が出来ませんと言うて、言うております。話を聞いてみると成程両方から、カチカチこう行く様なそれこそ突く様な刺す様な状態であったらしい。で、私それを聞かせて頂いてからそういう時にお互いと言いたいけれども、まぁあなたが両方とも信心があるんですよ。
ですけどもあなたが、神様がね大きゅうなれ大きゅうなれと、言いござるという声を聞く様な思いがしたらね、もうその事は途端に有難くなってくるよち言うて、もうそれを言い終わらんうちにですね。ほんなこつそうじゃったち言うごたる顔をするとですよね。日頃やっぱりご理解頂いとかんならん。もうそれこそもう辛抱が出来んと言った様な事があればね、神様が大きゅうなれ大きゅうなれと言いござると。
何故って私共は大きなおかげを頂きたいからですからね。大きゅうならにゃ大きなおかげは受けられはしません。小さい事が気になって気になって仕方がない。それが心配で心配でたまらん。それで大きなおかげを願うといったって、是はもう絶対受けられませんね。それこそどんなに清らかであっても、どんな清らかな心を、例えば持っておっても小さい事にそういう神経がジガジガしたり、腹が立ったりするような事ではね、それではおかげは受けられない。
やはり成程神経の小さいという事は、いけないのではないけれどもそういう小さい神経を、いろんな事が気になるけれども。もう次の瞬間にはねそれこそ神様が大きゅうなれ、大きゅうなれと言いござるという声を、そこに聞く様な思いが致しますとね。心豊かにいや豊かにというよりもね、有難うなって来るです。神様はこの様にしておかげを下さる。皆さんもね折角信心させて頂くならね。
そういう時に一言そうした御理解頂いたら、はぁほんなごつそうじゃったと思えるだけの信心を、常日頃頂いとかにゃいけませんよね。大きなおかげを頂きたい。そんなら大きなおかげの受けものが必要だと。それが分かりそれが信じられとらねばいけん。ですからさぁ自分の心にはばからん様な事が起こっても、この事だけは堪忍が出来んと言う様な事があっても、そういう時ほど例えば有難い。そういう時ほどです愈々おかげを頂いて行く。今日私48節、49節、50節とこう読みましたが。
48と言う事是は何時もが広がる48という事は、何時もが広がっておると言う事。何時もより大きなおかげを頂かせて下さる事の為の中に、何時もあるんだと言う事48というのはね。そすと49というのは是は何時もが苦労だという事。始終苦ですから信心させて頂く者は、それを何時もが修行だと思うておる。苦労だとは言わん修行だと言うですから私共が限りなく、絶えずおかげを頂きたいと言う心それが48なんだ。
そういう心をですね、私共がより言わば百節の御理解にあります様に、めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂るというではないかと。めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないかと。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。50節は丁度その百節の半分。それでそこで例えばとかく信心は地を肥やせ常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば肥をせんでもひとりでに物が出来る様なものぞと。
だから一遍肥やしときゃええという事じゃないですわね、是は何時も一人でに物が出来る様なおかげを頂く為には、何時も肥料が施されとかにゃならない。例えば畑なんかを作られる方に聞きますと、例えば何年作。例えば牛蒡は毎年はいけないそうですね。三年なら三年作ったら一時それを遊ばせにゃいかん。遊ばせると言うが他のものを作らにゃいけん。と言う様にです三年間はそこで出来るんだけれども、あと三年間はまたそれに肥料を施し続けなければ、また次の牛蒡は作られないと言った様な事なんです。
様に私共の心の上にはね。何時も絶えず何時もおかげを頂いて行きたいなら、何時も48何時もより広がって行く、よりおかげを頂いて行こうと思うなら、私共が常にとかく信心は地を肥やせと常平生からの信心。常平生からの信心修行が肝要なりという事になる。わが子の病気でも、可愛い可愛いと思うてうろたえるといけぬぞと。言う事を聞かん時という、この御理解は例えば自分の子供という様な、病気という様な事ではなくても良いと思う。例えばいろんな難儀な問題と言うても良いと思う。
その難儀な問題にです、言わばもうその難儀な問題が、余りにも身近にありましてからね、目の前が、真っ黒になる様な事では、おかげは頂かれん。そういう難儀な問題は、尽くすだけは尽くしてみた、やるだけはやってみた。けれどももういけんと思うたら、すっとその前を遠ざからにゃいかん。目の前にこうやって見るから分からんのだ。それからぽんと離れて見なきゃいけん。棚に上げれるもんな棚に上げたら良い。
そして信心してやれと仰っておられる。言うならばそうして信心をさせて貰うのだ、他に手はない。おかげが受けられるという。信心させて頂く者は、有難いですね。そういう一つの、信心の進め方というものを、身に付けておけば、お互いがねどういう問題に直面した時でも、ここん所を自分の心の中に頂いておくなら。矢張り人間ですから、あれやらこれやらと手を尽くしてみますよ。
例えばね、年末でさぁお金を払わんならん、支払いが幾ら幾らある。もうどうにも出来ん。手を尽くすとこだけは尽くした。そんなら仕方がないじゃない。だからもうひっくり返って寝とこうというのじゃいかん。信心してやれとこう仰る。だから遠く離れて見るんです。信心させて頂きよるうちにです、色々分からせて頂く事がある。その困った難儀の正体というものが、よう分かってくるのである。
傍からこうして見とるから分からんのだ。そこで49節。そこん所を私共がね何時もが修行だという気になって、信心は相縁機縁という事はね、いわゆるその機縁です。そういういうならばおかげの頂けれる、お徳の頂けれる力の受けられる縁を、そこに頂いておったと例えば気付いたら。その目の前が真っ黒になる様な難儀な問題。その事もです一つの素晴らしい機縁になる事でしょう。
次にはおかげとの縁がそこに繋がる。相縁である。これはねもう私自身体験してきておる事ですから。もう本当にここの48節のその事が分かる。人間がね矢張り力の限りを尽くしてみて、どうにも出来ないという問題に直面したならです。金なら金でも良い。もうどうにもこうにももうしようがないという時にはね、その苦しさから離れて見にゃいかん。と言うて逃避するのではない。所謂神様へ向えというのである。
だからそれこそ繰り返し繰り返し、拝みもするがええ、お参りもするがええ。帰ってから、また出直してくるがええ。皆さん本当いっぺんそういう体験をしてご覧。成程教祖の神様がね、嘘を仰ってない事がよう分かりますよ。そこから信ずる力は、愈々強うなってくる。それこそ言う事を聞かん時に、ままよと思うてと言う様にです。その事はままよと、例えば借金をとても人がですね、命まで取ろうとは言うまいと言う様な度胸を作る事なんですよ。そうして信心する。
だからそうしてほうからかしとったら愈々いけません。そうして信心するのです。しゃっち五遍しか参っちゃ出来ん、十遍しか参っちゃ出来んちいう事は、決してないと思う。何十遍参ったっちゃかんまん。お百度参りしたっちゃかんまん。もうさっきから拝んだけんち言う事はなか。拝んだら拝んだだけそれこそ、今朝から久富繁雄さんに言うように。大きなおかげを頂く、昨日の御理解の通り。
だからそこんところを繰り返し繰り返し稽古せにゃいかん。昨日丁度北九州の方へ、牛蒡を出荷するというお届けがあった。だからね絶対よそんところよりも一円でん高うなからにゃ出来んという気持ちでお願いしなさいと私が言うた。信心のあるもんとない者の親のある子とない子ほどの違いとおっしゃるから。その言うなら内面的な信心修行をずっとして来た。今度はそこに現れるところのおかげ、親のある子とない子ほどの違いをです、形の上に見せて下さい。
その為には今日息子が牛蒡を出しに行っとりますが、どうぞ他所んとよりも、一円でも良い差をつけて下さい。親のある子とない子ほどの違いを見せて下さい。とお願いしたけれどもやっぱり他所んとと同じ値段じゃったと言う事になりましょうが。そしたらまぁだ願いが足らじゃったと思うて、また次の時に願うたらええ。是を繰り返し繰り返し。それが稽古なんだ。先生、あげん言いなさるきん、お願いしたばってんおかげ頂かじゃったじゃいかん。それを繰り返し繰り返し願って行きよるうちにです。
願うこつ合いと言うか心の状態の事やらが分かってくるんです。私は昨日今あのマルショウの方達が、バンドの楽の稽古をやってますよね。もうそれは騒がましいこつ騒がましいこつ、ちょいと騒がましいですね。あのラッパを吹いたり外から聞きよると。しかもほんな同じこつばっかり、とぉきにゃこう流行唄のごたっとのちったこう、あんなつどんするなら、例えばよかばってんからちった聞きよかばってん、何時も同じ様な事をドンガラドンガラやっとるだけでしょうが。
昨日私どげな風で稽古しよるじゃろうかと思うて行ったらもうそれこそ整然たるもんですね。ずうっと皆んな椅子に掛けて、それぞれの楽器に取り組んでね。そすと光昭は高い段に乗ってから、こう指揮をやってます。そして同じ練習曲でしょう。幾通りかがある。そして私はそこでしばらく聞かせて頂いておるうちに、その曲が一つ一つ違う事が分かった。しかももう体を揺すりながら足で調子を取りながら、もう実に見事なね。
その練習曲ではあるですけれども、もう聞いとってから喧しいとは一つも思わないほどしに上達しておる。もう来春あたりは人の前でも演奏が出来る様になるだろうと言うておりました。まようしかしあれだけ外から聞きよったら、喧しかだけですけれども、実際見てから聞かせて頂きよるうちにです。もう本当に一人一人が楽しゅうしてたまらん様な風でやってます。しかもようあれだけ吹きこなし、ようあれだけ叩きこなしておると思わせて貰うくらいに、見事にやってます。
それこそ毎日毎日繰り返し繰り返し、それこそドンチャンプップでやってます様ですけれども。それがちゃんと一つのリズムと言うものがあってです。やってる者その者はもう楽しゅうして応えんと言う様にです。身体がうきうきする様な調子で稽古をやってます。信心の事でも同じ事。同じ事を繰り返し繰り返しやっておる内にです。調子が分かってくるです。そこ、例えばいわば機縁を得たならば。
次の相縁になっていかなければならない。おかげとの縁ですよ、今日ここで私が言うておるのは。機縁と言うのはそういう様な場合。先ほど私がある人のお取次をさせて頂いた。もう先生、辛抱が出来ん。成程もう本当辛抱が出来まいごとある、話聞いただけだったら。そらあんた別れたがよかたいち言うごとあった。自分もそのお届けをしたいと思うてやって来とった。ところが日々信心の稽古をしておる。
そして願っておる事は矢張りより大きなそれこそジャンボ的なおかげも頂きたいと願っておる一人である。そこで私はその方に言わせて頂いたこと。神様がねさぁ大きゅうなれ、大きゅうなれと言いござると、頂いたらどうかと言ったら、本当にそれを頂き私が言うてしまわん先にですね。はぁほんなこっと言う様な顔をするとですけん。日頃の信心が大事だと思いますね。
はぁほんな事神様が本当に大きいおかげを下さろうとする働きをです。もうすぐここで感じた訳です。だからねせめてお互い信心させて頂く者はそこまで行きたいね。そこまで、神様を信じたい。そしてまた二三日その方がご無礼しとりましたから、ここ二三日の御理解を私は聞いて貰うた。所謂あの和の心賀の心と言うものがです。その方がねそれこそそういう、もう辛抱が出来んと言った様な問題をです。
はぁ神様が大きゅうなれ大きゅうなれと言いござると思うたら、もうここに生まれたのが和の心なんです。はぁそうじゃったと。それが和の心なんです。そこで私がその方に言うんですよね。和賀心の和ですよと。そこでねそれだけではいけんから賀の心を頂かなきゃいけんと言うて最近は頂いておるんだと。そしたらすぐ私が頂く事はね。こう髪を揃えてしもうとるこう。ここに今髪がちょっとばっかりになっとるとじゃん。
それが綺麗に洗うてあるけれどまだ乾いてない。髪がねこうこ剃ってしもうとるもんじゃけん真ん中だけちょこっとこうやって長い。さぁこの髪じゃ例えば自由自在なほんなら丸髷てん島田てんち言うごたるとは、結われまいと言う感じの御心眼を頂いたあんたが最近はご無礼しとろうがと。神様に対してご無礼しとる成程私が言う事はもう親先生は、口を開きゃ研け改まれと言うて言われる事も。
私がどう言う事は大体知ってる。飲み込んどる。けれどもねやっぱり毎日お参りをさせて頂いて、毎日御理解を頂いておる者は、やはりそうではない。日に日にやっぱさらなものを頂いて帰りよる。最近あんたが神様に御無礼をしておると言うことはね、この髪が剃りあげてしまって居る様なもんじゃ。神とは信心の神と言う字です。神様の神と言う字に、まぁ頂かにゃならんと思います。その髪を少うしてしもうとる。
だからねあんたが如何に丸髷に結うて下さい、島田に結うて下さいち言うたっちゃこの髪じゃ結われん。さぁここからがね、一つ賀の頂けれる信心をせにゃいけんと言うて、和の心賀の心を色々説かせて頂いた。だから皆さん例えば、今申します様にもう自分の胸にはばからんと言った様な苦しい事でもです。はぁ神様が大きゅうなれ大きゅうなれと言いござると思うたら、もうそこに和の心は生まれた。
ところがね、おかげは和賀心にありと仰るから、和だけじゃおかげにならんとじゃ。そん為にはです矢張り、お互いの信心が小そうなったり細うなったりする様な事では、所謂おかげにならん。そこに私は修行が要る。とかくに信心は地を肥やせ。常平生からの信心。その常平生からの信心という事がです、大事になってくる。お互い一つ何時も本当言うたら、何時も神様の御守護の中にあって、いつもよりおかげを頂かせて下さろうとする働きの中にあると言う事を一つ知っとかにゃいけん。
そこから例えばわが子の病気でもと言った様な難儀な事。いうならばこりゃ病気だけの事ではない。所謂あらゆる難義という事に頂いていたら、どういう難儀に直面しても、そん時に、機縁が生れる。そん時がおかげの頂けれる、いわばチャンスである。そしてその苦しいとか、難儀な問題はです。一応棚に上げる様な気持で、ほっておくような気になって信心してやれと言う。信心させて頂くという事になる。
そこん所をです私はその信心してやれん所をです。繰り返し繰り返し、繰り返してみなければいけないと言うこと。一遍言うたけんで一遍でおかげ頂くち、言う様な事はありはしません。そこを繰り返し繰り返し、稽古をしておるうちにです。同じようなまぁ外から聞きよると、喧しいごとまぁ騒がましかばっかりのごたるけれども、実際に演奏をしております時、そこで見たり聞いたり一緒にしておりますとです。
成程それぞれのちゃんと、練習曲ではありましょうけれども、それ、見事に一つのリズムになっておると言うこと。調子が分かってくる。そういう基礎がいわば、出来た上にも出来させて頂くという所にです。次にはいわば誰が聞いても楽しい。誰が聞いても面白い。誰が聞いても有難い。いうならそういう、様々な曲が吹きこなせれる基礎が、その様にして出来て来る。
誰が見ても成程、信心のある者とない者は、親のある子とない子ほどの違いが、内面的の上にも頂けるならです。外側に現れて来る所の、おかげの上にもです。成程信心してござるけん違うなぁと言う事。同じ魚屋さんが二軒並うどるならば、信心させて頂きよる者の家の魚屋さんは、何時も例えばお客さんが絶え間がないとか、段々繁盛して行くという生き方に現れて来なければいけない。
為には私はあの繁雄さんに、昨日言った様に隣の魚屋と例えば隣を魚屋としてたい。もう絶対隣よりか一円でん高う、高う売るじゃなかたいね。一円でん余計売り上げのある事を願わにゃいかんです信心があるとじゃけん、違わにゃいかんて。だから一円でも良いから印を見せて下さいと言う意気込みを持って、神様に願わにゃいかんしかも一遍願うたぐらいじゃいかん。繰り返し繰り返し願う稽古をさせて貰わなければならん。段々心が肥えて来る地が肥えて来る。
そしてそこに一人でに物が出来て来る様になる。肥はせんでも一人でに出来て来るようになる。だからそれをほっておくという事ではない。こちらの田がもうほっといても出来よるならこんねおは、こちらの方の田がもう荒れとるに違いはない。だから今度はそれに肥やす。とにかく始終苦である。何時もが修行であるという自覚。しかもその何時もが修行であるという、何時もが苦であると言わずに。
何時もが修行であると言う所に、どうでも修行の楽しさ修行の言うなら、有難さと言うものを身に付けて行かねばいけん。子供達が一生懸命稽古をしておるそれがです、今は例えば修行中。たった幾つかの練習曲を繰り返し繰り返し、何時間もやってます。所がねまぁ同じ事ばっかりの様な感じです。私がこちらから見ておると、皆が本当にそれで結構楽しそうに見える。そらもう本当に楽しそうに見えるんですよ。
一遍稽古しよる所を見せて貰うてご覧なさい。もう一人一人が楽しゅうて応えんと言うような風でやってます。所謂修行が楽しい只今まだ修行中。その上に自由自在な曲が弾きこなせれる様になったら、どの様に有難い事であろうか。自由自在なおかげがここから頂けれるようになったら、どんなに有難い事であろうか。私はそういうおかげを頂くという事がね。所謂御理解百節。めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂る。
所謂枝が栄えて行かなきゃいけん、葉も茂って行かなければいけない。それも親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と言うように、おかげを頂いて行かなければならない。そういう目安が付かなければいけん。金光大神はそういう道を教えて下さるのです。だからそういう道をね、本気で私は稽古をしなければ駄目。話を聞いただけじゃ駄目。本当に私はそれを稽古しなければいけん。今日もやっぱりいうならば、和の心と賀の心をね頂かせて頂くことの為の、やは、み教えであったと、こう思います。
年末ともなるとお互いがやっぱり、色々いらだちます。ただしお互いが物一つでもけたたましゅうなります。そこん所を一つ和の心をもって、いや和では受けられんでも、次の瞬間には和になれれるおかげを、一つ頂きたいもんである。同時に私共がね願いとするところのそれこそ見事な髪を結いあげるというか、。おかげを頂きあげるというか。おかげを頂くためにこの髪を減らしてはならない。
常日頃の信心が肝要じゃと仰る。常日頃の信心が肝要だと。その常日頃の信心には、何時もがね、48である。何時もがよりおかげを下さろうとする、末広がりにおかげを下さろうとする。何時もそういう働きがあったおるという事である。為には49である何時もが修行だという気持ち。何時もが修行ちゃ苦しいことだと思わずに。その修行の中にです、楽しさが分かる修行を一つさせて頂きたいもんである。
どうぞ。